長く続ける気はないお。

前にブクマで少し可愛がったhashigotanが頂点に登りつめとる。これはちょっと公益のためにもDisっとかんといかん。単なる無責任ブックマーカーと見なされっぱなしというのも癪に障るし。というわけで、気まぐれに隠れ家ブログ開いてみました。

hashigotanは、今さぞ満足だと思う。アルファブロガーまでが登場して結構まじめにご高説を垂れ、すごい注目を集めてね。けど落ち着いてよく考えて欲しい・・・あれがそんなご大層なもんなのか?

あんなの、要は単なる計算づくの幼児返りなんだよ。わがままなのは当たり前なの。きちんと幼児期をすごせなかった人が、優しいブログ読者さんたちを相手に理不尽な要求と共に泣き喚いてみせ、スネまくり甘えまくって試し行動を派手に展開することで構ってもらおうとしているだけ。相手が困り果てた反応を見せれば見せるほど、かえってそれが少しは癒しになるわけさ。

おまえはねこぢるかと。山野一かと*1アダルトチルドレンの総本山で呪術方面を担当している古株責任者かと。

ブログはもっと社会的な信用が得られるメディアとして成熟してゆかねばならん ― そういう考えに立つとき、hashigotanのような「初期衝動全開」キャラは、眉をひそめられる悪役にならざるをえないと思うのだ。今のままでは、「これだから低学歴の人は・・・(しょせんブログなど高卒以下の人および不遇な大学院出のフラストレーション発散メディアだよね)」と、心ある人たちからは肩をすくめられて終わりになる危険性が大。学歴差別じゃないぞ。hashigotanのような人は、もっと発言の作法をわきまえさえすれば、大化けすることができる才能の持ち主。もったいないから、苦言を呈するんだ。

もちろん、「表現」としての魅力は否定しがたい。おでもロック好きなので、堪えられないほどのフリーキーな痛快さは大いに感じる。しかし、ことが単なるアートではなく、半分は言論に関わる問題だから、そのままでは容認できないんだな・・・。泣き喚きたいのをぐっとこらえ、もっと大人の発言として純化させてからものをいえ。そういいたくもなってくる。

よく似た実例を現に知ってるから、比較してしまうのだ。それはLeiさんの『Firedragon戦記/絆なき者の記録』およびMariaさんの『Mariaの戦いと祈り』。知っている人は知っているだろう。児童養護施設だけで「子ども時代」と「青春期」をすごし、成長した今すさまじいまでの生き難さを抱えている方たちだ。このおふたりが体験したことは、たぶん全ての点でhashigotan以上に過酷だが、彼女たちは泣き言など絶対にいわない。常に高い公共性のレベルで言葉を紡いでいる。だから、センセーショナルな注目を集めることもない代わりに、言葉が重みをもって受け止められ、それが少しずつ社会を変えているように見える。

hashigotanは、今のままでは消費されて終わりではないのか? 更新をやめたらポイではないのか? 恨み言しかいわない、というのはそういうこと。ポジティブな提言というのが、言論には必要なんだよ。

この問題は日本にブログというメディアが到来したことの本当の意味を探るために最適なルートのひとつだと思うので、密かに考えていきたいと思う。隠れ家なので特に対話は望んでいないし、おではそれなりにリア充なので、あまり積極的な対外活動もしないが、いちおうコメント欄などは開放しておく。まあ玩具のひとつです。あまり長く続ける予定ではありませんし、毎日メンテするわけでもないので、お読みくださる方はどうぞ最初からそのつもりで接してください。

*1:まあこのふたりは夫婦でしたから、それだけで不適切な比喩と思われるかも知れませんが、中心モチーフが世の暗黒面の肯定なので、ポジション的には近いと思っています。